2013/03/29

要塞都市(回想録3)


最初に移り住んだアパート、コルベットというミラノ地下鉄の駅ちかであった。あたりに駐車される車をみればその地域の治安がうかがい知れる。駐車される車のハンドルにはしっかり棒状のロックが付いているものや窓ガラスの割られたものが多いのだった。もともと戦後に建てられた分譲住宅で決してカッコいい事はないがビンボー学生にはそこそこに広くて家賃も物価の高い中心街よりかなりリーズナブルだった。まず、外国人だとなかなか借りる事が出来ないのが本当で、選ぶほど貸してもらえる物件が無かったのだ。そこは大家さんであるローザさんのおかあさんが住んだアパートで古い家具がそのままだった。住み出すといつの間にか日本人が集まり、私はみんなで住めば家賃の負担も少なくなるので当初3名でそのアパートを借りたのだった。その後、家探しで困っている学生などが避難してきたりで時折6~7名になることがあったが山小屋のように皆一時の宿にして出て行ったものだ。


そんなアパートにドイツから珍客がやってきた、妹だった。彼女はドイツの南ミュンヘンという町に住んでいた。そこから列車でイタリアにやってきたのだった。しばらくミラノに滞在した後、「次はおれが自転車のっていくわ」と別れ際に言ってしまった。そして夏が過ぎ、どの工房へ行ってもなかなか働かしてもらえるところが見つからない。だんだんと資金もなくなりかけて焦っていた頃、ふとドイツに行ってみたくなった。お金がないのでもちろん木製自転車を漕いで行くのである。交通量の多いミラノからブレーシアまでは国鉄の普通列車に自転車を乗せた。ブレーシアという駅で降りる予定だ。途中、国鉄の車掌があまりにおかしな自転車を積み込むものだから私の席のとなりに陣取り動かない。根掘り葉掘り色々質問されて車窓なんてまるで見ていない、その頃はまだイタリア語もままならずものすごいエネルギーを費やさなくては返事もできないのである。



なぜか駅によくある体重計












「ところでおまえ、その変わった自転車でどこまで行くんだい?」ドイツへ向かうと告げると「すげぇな、でもおまえら中国人は強いからなぁ」とまたもや中国人と間違えられつつ ブレーシアからガルダ湖畔の道を北上するつもりだと伝えると「え? ブレーシアならさっき過ぎちまったぞ」・・「え?マジ?!」・・車掌、アンタのせいだよ。 そう、国鉄列車の車内で日本であるような「次の駅は・・」というアナウンスがある訳もなく、駅に掲げてある看板だけが頼りなのである。自分がいる列車の車窓によっては看板が見えない場合も多々あり初めて行く場所では列車が減速すると必ず外を「ガン見」しなければならない。 次の駅はペスキエラ、駅の手前に湖が一望できる古橋の上を列車がスピードを落として走るとそこは湖畔で要塞のある城下町が見えた。乗り越したにもかかわらず車掌は「頑張れよぉ中国人!」といって次がペスキエラだと言って教えてくれた。もちろん、乗り越し料金は取られなかった。

ガルダ湖畔トルボレの街
ここから果てしなく登りが続く



当時、グーグルマップなんてモノはなく当然クルマ用のツーリングマップの必要なページを切り取って持っていったのだった。ペスキエラの要塞を背に湖を左手にみながら北上する、ミラノの都会にいると見えない大きな風景が広がっていた。都会の喧噪を離れただひたすら北を目指す、何がそこにあるかはわからない、本当のことを言うと妹に会うなんてのはどうでもいいのだった。ただ知らない土地に行ってみたかったのである。途中アルプスを越える事になるが木製自転車で山を越え、異国に行くというバカなこともしてみたかったのである。ペスキエラを出てしばらくするとトルボレという町からチロル川(イタリア名:アディジェ川)に出るという看板があるがその道はひたすら登りである。峠を越すとちょうど夕刻、テントを張れそうな場所を見つけないといけないと焦るのだがそこにパニーノを売る屋台があるではないか。トラックを改造した屋台の前で片手にレモンソーダをもち生ハムに夢中になりながらパニーノにかぶりついていると自転車を興味ありげに近づく男がいた。


<つづく>

体重計:なぜかよく街中に見かけた「体重計」、あるイタリア人がなぜだか説明した
「ひとに招かれて食いに行く前に計って、帰ってきて計る 何キロ食べたかわかるだろ」
 本当は70年代健康志向のブームがあって体重を計り数値化するということが「健康」だという風潮があったらしい。

レモンソーダ:コーラ、ファンタの類は飲まないが、この「レモソ」だけは別。 コレがあるとBARでも必ず頼んだ。不二家のレモンソーダ(クロにシロの水玉)に近くやや炭酸がマイルドなのだ 姉妹品にオレンジテイストもあるがそっちはオススメできない。

ペスキエラ : この駅がこの数年後、自分の最寄り駅となる。イタリアでもっとも大きな湖を源とするミンチョ川の始点であり第一次大戦の際にオーストリアによって築かれた湖上の要塞都市。http://www.comune.peschieradelgarda.vr.it/
(役場のHPでは”イタリアの宝石”とうたわれているが、イタリア人が作った城跡ではない)




より大きな地図で 木製自転車はアルプスを越えられるか? を表示

2013/03/27

オット・トゥービ

イタリアで修行したいと1年に一回ぐらい迷える子羊から問い合わせがやってくる
その子たちに「じゃ、どこの工房に行きたいの?」と聞くと「ビアンキ」とか「コルナゴ」など有名どころのブランドの名前が挙がることが多い。
しかし私が本当に「工房」として認めるにはそこに情熱があるかどうか。
日本で有名なイタリアのブランドは「ブランド」であって「工房」ではないのだ。

そんな書き下りをするとあちこちから揶揄されそうだが、あえて書くことにする。
なぜなら、10年来の友人 ダビデ君と企てたショップが大きくなってイタリアハンドメイドバイクショーを決行することになってん。

本人は家族を連れていま、来日中でウチに泊まってるんやけど、ネットを使って地球の裏側にいる8名のスタッフとミラノの2店舗と連絡をしきりに取って準備している状況や。

スポンサーであるコロンバス、デダチャイなどのメーカーが材料をフレームビルダーに支給し、展示会のために数本のフレームを作る。トークショーも開催され若手から重鎮までのビルダーが招かれている。 実は、海外組みの筆頭にウチの名前が挙げられたんやけど会期が近すぎて作れへんし、ウチはパイプやなくて「木材」使うから来年に参加することにした。

でも、この展示会、「ottotubi」(オット・トゥービ)は今後ミラノからどのような発信を世界にしていくのか大変楽しみな展開になりそう。イタリアで現存するハンドメイド工房の今を知るには絶好の機会になるだろう。


会期:4/9〜13




ちょうどミラノサローネが開催されている時期なのでミラノを訪ねる人も多いのではないだろうか。。 


こんな長い自転車見たことない。。
タンデムに子供用トレーラーを装着
ダビデさん一家3人と 三峰川<>高遠 のサイクリング道を楽しみました


2013/03/26

宮殿の錦(回想録2)


フランコは携帯電話を持っていない。ミラノの市街局番から始まる番号をレシートの裏に書いて持たしてくれた。2003年の冬だった、彼からヒストリーバイクの展覧会がモンツァであるから来ないかと誘われた。クルマのない私は言われた住所に自転車を漕いで行ってみるとなんと元モンツァ公国の宮殿にたどり着いた。入り口には「ロードレース100年の歴史」と銘打って講演会が開催されようとしていた。




正装姿のレセプション、当然ながら私はジャージパンツにGジャンという行動的ないで立ちでミラノのアパートから自転車でやって来てしまった。場違いな雰囲気が漂うなかおもいきって乗り込むことにする。重さ数百キロはあろうかという鍛造の門扉を抜け玉砂利の敷き詰められたアプローチを自分の木製自転車を押して進んで行く。真っ白いその宮殿はあまりに荘厳で真ん中まで行って帰りたくなる衝動に駆られるが ぐっと我慢して歩を進めると「あなた様はどちらの方の紹介ですか?」と視線を私の履いていたボロ靴に移していつもと違うていねい系の言葉で聞いてくるではないか。

いつものように発展途上国からの出稼ぎ労働者と間違われるのにも慣れていたが受付嬢の眼はとても冷淡でこちらに蔑んだ眼差しを向けているように思えた。私は「あのぉ、そのぉフランコさんに招待されて」モジモジしながら小心者まる出しで言うと受付の女性は急に笑みながら「やっぱり、フランコさんのご友人ね!その素晴らしい自転車は受付の私どもがしっかり見張っていますから、さぁ、どうぞ。」  ガチガチに固まったココロの氷山が溶けたのだった。会場の中には地元ブーニョなど有名選手達、カザーティ工房のジャンニ、コルナゴなどベネト州を代表するメーカーが顔を揃えていた。そんな大物がビシッとスーツを決めている中、私以外にもうひとりかなりルーズな身なりの男が舞台にいる。

彼はGIROで優勝し富と名声を得たジャンニ・ブーニョがスーツでキメキメのとなり、いつもながらのラフなスタイル。といってもアメリカの俳優が壇上でするあえてルーズなスタイルではなく、本当にそこいらのオッサン的なのだ。イタリア語には丁寧に話すときに使われる文法や語句がありそのオッサンの風貌にふさわしくない最上級の敬語で話しかけられていた。

ファウスト・コッピが使用したもの

モゼールがアワーレコードに使用した


展覧会はその宮殿から数キロのホールで開催され見たことないような実際にレースで使用された自転車がずらりと並んでいた。会場にいたフランコにこれらの自転車はどこから持ってきたんだい?と聞くとそのほとんどが彼のコレクションだという。ざっと70台ほどあるだろうか・・彼は自分のことをコレクターなんだと言って笑っていた。 後日かれがくれた電話番号に電話する機会があった時のこと、本人が出るかと思いきや若い女性が応対してくれてミラノにある会社のオーナーであることがわかった。 数年後、ある雑誌の取材でコルナゴへ通訳として同行した際にエルネスト本人から彼は資本家で自転車が大好きなんだと知らせれた。 私がイタリアで本当の金持ちというものはどういう姿をしているのか、ひとは見かけによらないのだと思い知らされた。

そして頭の中に白い宮殿と自転車を押すアジア人の出稼ぎ労働者が浮かんだ。。
でも「ボロは着ててもココロは錦」なのだと自分に言い聞かせた。


1984 チネリ レーザー クロノ


1931 マイノ

1956 ビアンキ 油差しが付いている

1946 LYGIE


<つづく>

2013/03/16

木の匂い(回想録1)

ミラノからボローニャへ行ってみたり

自転車の奥の奥を知りたい。その一心でイタリアに渡った頃スカイプなんてある訳なく、まだイタリアではダイヤルアップで「ビーコーボーコー」 いってたころ。簡単に働ける工房も見つかる訳がなくポートフォリオ(アート関係のひとが作品集を使ってPRするもの)である自分で作った木製自転車・ピノコに乗って走り回っていた頃。
FS(イタリア国鉄)自転車収納スペース

世間は日韓同時開催のサッカーW杯まっただ中。ルームシェアをした日本人の服飾学校の学生とミラノのアパートに住んでいた。イタリア戦が始まるとあたりは静まりかえり、人通りが消え「ウォー!」と歓声がだけが窓という窓からするあまりにおかしな現象に思い切ってTVを買ったりもした。イタリアが韓国相手に敗退して韓国人に間違えられいろんなところで入店拒否や、モノを売ってくれなかったりしたことを懐かしく思い出した。

市内を走るトラムの中は木製でとてもいい感じ

修行先、受け入れてくれる工房を見つける というその希望だけが原動力となり電車にピノコを載せていろんなところへ行った。その中にノベグロというミラノの一角でクルマを含む旧車パーツの即売会へ木製自転車で行ってみた。
あ、コレ 銀河鉄道だっけ? 松本零士のアニメでみたことがある!
そこには、ありとあらゆる古パーツや、見たことのない旧車が売られている。あれこれ見ていると決してキレイな身なりといえない初老の男性が呼び止める「オイ!そこのラガ!」(Ragazzo=兄ちゃん!)聞くと自分が持ち込んだピノコに興味があるらしい。彼の名は「フランコ・バリスコ」といいジャージパンツに袖の黄色いシャツを着たどう見てもヘンなオッサンだった。「住所をくれよ、明日の朝9時におまえの家の前に行くからその自転車をもって待ってるんだゾ」と言うではないか・・確かに明日これといってすることがない。。
翌日そのオッサンは大して変わらない出で立ちでボロボロのクルマを運転してやってきた。そこに木製自転車を積み込んで「あるところ」に連れて行ってくれるという。半信半疑で乗り込みついていくと、シルバーのボログルマを北へと進める。ミラノの郊外、住宅がまばらになり広葉樹の林が眼に付くようになる、丘をぐいぐい登っていくとそこに小さなクルマの修理工場があった。その奥から出てきたのはそのオッサンよりひとまわりは年寄りだろうか、声のデカい爺さんだ。まるで宮崎アニメの「紅の豚」に出てくるピッコロ社のオヤジのような感じ。風貌は似ていないがお茶目で声がデカい。
元村長、ジョバンニ さん
木リムを作る「ジョバンニ・チェルメナーティー」さんだった。木製リム製造メーカーとして世界で唯一現存していた。不思議な出で立ちのオッサン「フランコ」はオレをこの爺さんに会わせたかったのだと この時、初めて理解した。その工房から数百メートル、そこにはギザッロ教会が建っている。この小さな山間の自動車修理工場の地下に木製リムメーカーが今も存在しているとは・・。まるでミラノとこの山間部のコントラストが地上の「自動車の油の匂い」と「木工の木の匂い」のコントラストと重なって見えた。

しかし、このヘンなオッサン、「フランコ・バリスコ」とは一体?

<つづく>

チェルメナーティー家:現在の700cを考案したアレッサンドロの「DAM社」は彼の父。DAM社はその後幾重の変遷を経て現在のタイヤメーカー「ビットリア」となる。木リム部門だけは彼が売り渡さず今も先代から使われている型を使い作り続けられている。ジョバンニの住まうギザッロ教会のある村、マグレッリオ村の村長を務め、在職中に教会の向に自転車文化博物館建設に尽力した。museo del ghisallo
この爺さんの作る木製リムはコチラ→ Cerchi Ghisallo