2015/03/28

レジナ


山形へ採寸旅行なのだ。
西は九州熊本まで行った事があるけど、東は東京までだった。 東北で初めて依頼があったので行ってみたら どえらいコアなお客さんが歓待してくれてん。

自転車歴12年だけど、出されたお題は「SuperRecord」! 

新品ですやん! しかも当時の箱入り
フリーはさすがに無いだろうと思ってたら、レジナ フテゥーラ コンプリート でチェーンもオロ と来た! 自転車歴12年ではない臭いがプンプン… どうもお友達にマニアがいるらしくそのマニアック度がハンパないらしい。


脱帽しました… ここは秘蔵のビンダストラップを提供して、ハンドルも当時物のジモンディ3ttt リムはNISIを組むしかない感じです。

フレームは ZULLO 1976SPECIAL を用意してと。。サドル どうしようかな?
コンコール か チネリ シロ… 迷うぜェ

山形名物の挽きぐるみ田舎蕎麦を頂いて帰りみちみちゆっくり考えるとする。


2015/03/27

トリコロール

カッコいい FIGATA と訳される、オレみたいにカッコいいオトコ(笑)はFIGONE(FIGOの最上級)フィゴーネ と言い、女性ならFIGAという。ちなみに辞書を引いてもちゃんと載っていないぞぉ。 さて、その格好良さだが人によって様々だ。ただし「美しい」とか「カッコいい」なんてのは相対論であるところも大きく「一般的ではない」=珍しい ということが第一条件である。

むかし、ミラノに住んでいるときに骨董市で買い求めた古着のツイードジャケット。たった5ユーロだったがまるであつらえたようにぴったりだった。家に帰って仕立て屋のシェアメイトに見せると目を白黒させてうらやましがった。今でも良く着るジャケットの1つだがそれを5ユーロだと隠すことなく白状することにしている。人に威張るならアルマーニかも知れないがこの無名のツイードのほうが好きだ。

カッコいいとはどういうことなのだろうか?

身の丈に合ったモノをまとい、人の価値観に左右されない自分の物差しをもって物事を判断する。その価値観に他人の同意を必要とせずまた他の物差しを批判することもしない。・・ということのような気がする。だからオレは「イタリア製」だからといって国旗を付けなくてはいけないと言うのにはすこし抵抗がある。実際、フレームに付いているイタリアの国旗はものすごく小さく描くし、でっかいトリコロールを付けてくるブランドはそのステッカーを剥がしてしまうことも多い。日本製のカメラや自動車、自転車でもいいが日本の「日の丸」が付いているとちょっと「ダサイ」と感じるのはおれだけなのだろうか? 万が一にもフェラーリを買うことがあっても日本のナンバープレートの下にイタリアのナンバープレートを挟まない。それこそがモノがどこから来たということが自身の思う「格好良い」価値観を支配しているように思えてならない。

イタリア製だからカッコいい という漠然としたイメージが製品の本質をぼやかしているように思える。仮にZULLO氏が日本に引っ越したとしたらどうだろう?もちろんイタリア製ではない。過去には関西人のオレがイタリアで「メイドインITALY」と書いていたがそれは許されるのだろうか? 

お客さんにカッコいいモノって?

これが難しい・・オレの持っている価値観をぐっと抑えなくてはならない。オレの趣向や好き嫌いを仕事に際してはオフにしなくてはならない。例えばオレンジ色の車体に黄緑色でロゴを入れたいというリクエストの場合、オレのバイクには絶対しないパターン。生理的にダメ。でも何故このリクエストが受け付けないのかをすこし掘り下げると、その2色が「補色」という真反対の色の関係になっている。色度のコントラストが最も強く、色温度も極端な差が出てしまい、製品を分割するように見える。これは「美術」という学問の上で論理的にNGなのである。

仕事に際してはオフにする自身の物差しだが、それによって冷静に対象である「ヒト」を見ることができる。自転車を設計する上では「お客さん」である。その「ヒト」と話をするところから始め、ありとあらゆるその「ヒト」についての情報を集める。お客さんの身体寸法をとるために遠くは九州、東北に足を運ぶのは採寸だけが目的ではない。使うヒトの持っている価値観を知ることがその人に合うカッコいいモノを創造する上でどうしても必要なのだ。



2015/03/07

マリア



昨年ドイツで開催されていたユーロバイクの帰路、ボーデン湖からVERONAを目指し列車で南下する。クルマだと結構簡単なのだが列車は結構ややこしい。
まず、会場のあるドイツからオーストリアとの国境の街ブレゲンツで乗り換え、オーストリア国鉄のインスブルック方面行きに乗る。このブレゲンツはオーストリアの西の端だからウィーン行きでもインス行きでもどちらも正解。しかし列車は乗り継ぎが悪く結局インスブルックに着いたのは夜半で1泊して翌日ブレンネロ峠駅行きに乗る。ここはイタリアとの国境でここでイタリア国鉄に乗り換える。通して切符を買えれば良いが普通列車の場合は国ごとに買い求めなくてはならない。結構大変である・・イタリアに入って見慣れた風景が目に飛び込んできた、数年を過ごしたトレントである
ユーロバイクの会場のあるボーデン湖
対岸はスイス 湖畔の南側はオーストリアだ
途中インスブルックで泊まり、いつもお決まりのアップルパイを朝食に頂く
チロル地方の定番スイーツだ(オレはこのパイが大好きだ)

ブレンネロ峠へ向かうオーストリア国鉄からの車窓
その昔、自作の木製自転車であの道をイタリアから下っていったバカがいた

哀愁のイタリア国鉄は相変わらずボロい
オーストリアから乗り換えるとその差に戸惑うけどその無骨さが好き

ブドウ畑が出てきたトレント北部
谷にはリンゴとブドウの畑 列車はVERONAへひた走る
トレントで途中下車
ここで途中下車したには訳がある・・今回の旅のちょっと前に衝撃的なニュースを耳にした。ここトレントにあったサンパトリニャーノの支部が閉鎖されたということだった。サンパトリニャーノとは、イタリア社会に蔓延する麻薬中毒患者、アルコール中毒患者などを更正させ社会復帰をさせる団体でヨーロッパに知れ渡る大きな組織だ。タイトルを[マリア」にしたがマリエッタ・ジャージの意味 ではない。マリアは隠語で「マリファナ」を意味する。 その施設で彼らは職業訓練の一環としてワイン製造や馬の飼育、特殊なものでは高級壁紙を作ったりもしていてその壁紙はアメリカ・ホワイトハウスにも使用されている。実はそこに自転車製造部門があった。チネリ・レーザーをデザインしたアンドレア・ペゼンティーやカレッラのルチアノ・ブラッキ、ダリオ・ペゴレッティーなどそうそうたるメンバーが出入りしていた隠れた工房でもあった。私は渡欧した翌年からここで働き、各社の下請けの仕事をそこの若者達と一緒にやった懐かしい場所である。後のZULLO氏との出会いの場でもあるこの工房が支部ごと無くなってしまうというニュースだった。そこにはペゴレッティーの弟ジャンニが職員としてフレーム製造を管理していたはずだった。私はそのジャンニ・ペゴレッティーに会いたかったのだ。
サンパトリニャーノ閉鎖! の紙面

久々に再会したペゴレッティの弟ジャンニ(右)
彼がデザインの一切を担当して現在のPEGORETTIがある
私は彼をバイクデザインの先駆者として尊敬している

当時、兄ダリオは溶接講師として施設で教えていた
その施設で私たちが塗装を行っていた

リミニの本部は1500名に対しここトレント支部は150名程度
ホテルと間違うようなきれいな宿舎でもちろん塀はない
皆すすんで4年の更正プログラムをこなしていく

CARDONAZZO湖 トレントから20km SGANA谷を行ったPERGINEという街の近く
この湖を見下ろす丘のうえに宿舎と工房が建てられていた
列車を降りると懐かしい顔があった。ジャンニ・ペゴレッティーだ。私を車に乗せカルドナッツォ湖へと走る。ジャンニは奥さんと2人暮らしで子供はいない。施設で息が詰まるとよく私を泊めてくれた湖畔の古い彼の家は改装されてモダンになっていた。


施設の閉鎖はやはり彼にとってもショックだったようだ・・兄と弟でブランドを起こしたあの当時とは馬力が違うと説明してくれた。しかし抜群のデザインセンスをもつジャンニだったらできるのではないかと言うと、彼は へっへへ・・と薄ら笑いをしながら新しい作業場を見つけて準備をしていると言う。サイズオーダーのカーボンバイクで製造を開始する。彼のすることだから、きっと見慣れたバイクにならないだろうとワクワクしてします。「カーボン」と聞くと拒否反応をする人もいるかも知れないがその辺の話はまた今度ゆっくりしよう。 ここで過ごした数年、彼とサンパトリニャーノの若者達に感謝し彼らが二度と人生を誤ることなく何処かで生き生きとしていることを願う。


<季刊誌CYCLEに寄稿した当時の施設での話>

まるでリゾートのような印象だったその工房・・がそれもそのはず。そこのスタッフの説明で元麻薬中毒患者達の作業所で職業訓練が主な目的で運営されているサンパトリニャーノという施設の一部だったのだ。入所者は寝食を共にし4年間でその道の専門性を身につけ社会に復帰する。麻薬に人生をむしばまれ現在は手に職を付けるために黙々と働いていたのだった。花を栽培するコースや盲導犬を育てるブリーダー、ミラノサローネに出品されるチェアやテーブルを作る木工所も併設される。フェンスも塀もない敷地に建つリゾートホテルみたいだと思った建物は彼らの宿舎であった。私は修行の目的で渡欧したが製作現場にまだ飛び込めない焦りもあり施設にいる若者達が逆にうらやましくも見えたものだ。

その若者達を束ねるピエトロという男は私の木製自転車を見るや所長に会わせてくれ、私がイタリアに来た理由を正直に言うとここで働けと言う。しかし、どこに住んだらいいのだ? 麓にあるサクランボと林檎畑以外はアルプス山中でアパートどころか住居さえまばらである。考えあぐねていると「おまえさえ気にしなければ、若者と同じフロアに1部屋空きがあるからそこを使えばいい、あと3食もつけるぞ」というではないか。所長面談が終わるとピエトロは私に「うまくやったな!」とニコニコして言い私はそのままの旅行スタイルでその日から泊まり込みが始まった。

その山中の工房へ自転車業界の重鎮達がよく出入りした。イタリアを代表する多くのブランドが手間の掛かるフレーム製造をこの施設に委託していたのだ。私たちが製造した中にはGIROやTOURに出る選手のフレームなどもありレース中継で見ることもよくあった。デザインと品質管理が私の主な任務だったがその傍ら塗装をしたり溶接したり元ドラッグジャンキーたちと徐々に仲良くなっていった。常に彼らと過ごすうちにあまり上手ではなかったイタリア語も磨かれ、彼らの身の上話を聞きながら作業に当たる。VERONA出身のフェンシ-という男は仕上げを担当、彼はドラッグの購入資金のために銀行強盗を4回もして逮捕され施設での更生中だったが私にヤスリのかけ方以外に「その」方法もしっかり教えてくれたりした。イタリアは今だコネが重要な社会である。そのコネを持ち合わせていないと努力が認められないというより自分の能力を表現する場所にさえ巡り会うことが難しい。確かにドラッグに手を出すほうが悪いといえばそうなのだが容易に手に入ってしまう社会なのだ。彼らと接しているうちにそう簡単な問題ではないように思える。私はアルプスの雄大な景色の中、自転車製造を通してイタリア社会の深淵に突然ほうり込まれたようだった。
みな、私にイタリア語(他にもいろいろ)を教えてくれた