2014/06/17

カステッリ

オレがまだ高校生だったころ。。
祖父に買い与えられたロードレーサーを乗って往復40km通学路
消耗品だけでも結構なお値段になる・・思いついたのは自転車屋さんのでのバイト。もちろん、学校では禁止されていたがそんなもんお構いなし。

高校からの帰路、1件づつバイト募集はしてへんか?と聞いて帰る。1日1軒と決めていて2週間ほど経って1軒がバイトにOKを出してくれた。そこで部品を安く買わせてもらい、お小遣いを貯めては旅行に行った。ある日、雑誌に出ていたあるフレームに眼が釘付けになった。CASTELLIとあるフレームでクロに近いムラサキで3〜4色のドットがあしらってある。それは他のイタリアのフレームとは違いおとなしく細く美しいのだった。速さを表現するデザインが多い中、それは上質なオーラに包まれていたのだった。

学業はそこそこにバイトに身が入りなんとか代金を貯めて当時の輸入代理店に問い合わせをするともう取り扱っていないという・・残念だった。その後、猛烈に欲しくなるイタリアモノは現れず、記憶の彼方に忘れていった。

それから15年、自転車小僧はイタリアへ渡り本格的にフレーム製造をするようになる
カザーティーさんからのオファーを断りトレントのサンパトリニャーノへ、そして業界の重要人物達に出会う。良くしゃべるイタリア人のブランドオーナー達、でもそのなかに物静かで強くどことなく優しいオーラを放つひとがいた。彼の名は「TIZIANO・ZULLO」、時代に忘れられたTVMのサプライヤーだった。

トレントから彼の元へ友人に借りた50ccのベスパに乗って2日かけて移動し、彼の元での修行が始まった。当初、年間20本程度の生産台数で私のすることはもっぱら掃除。ヤスリからホウキに持ち替えて日々掃除に明け暮れた。お盆をまえにカタログや古い写真を整理しているとそこに自転車小僧時代に欲しくて欲しくてお金を貯めたあの「Castelli」フレームのカタログが出てきた。私はホウキを傍らに置いて見入っていると、後からZULLO氏が「それ、懐かしいなぁ・・オレが作ってたんだよ」と独り言のように言った。なんと「縁」とは不思議なものである・・
憧れたバイク[Castelli]

夏になると店にある19インチのTVでジロやツールの中継を見るしょぼくれた彼の背中を見ていた。工房や店を掃除するとUCIツール関係のパスや書類、ヘルメットをかぶっていない時代のジロやツールの写真が出てくる。その度に私はこのおじさんがただ者ではないと確信していった。もう一度、彼を世界の第一線に返り咲かせようと決心した。それは彼のためでもあり「ホウキ」から解放されたい自分のためでもあった。以前は冬季3ヶ月の帰国をして以前からしていたディスプレーの仕事を完全に辞めた。退路を断ち1年を通して工房に居着きターゲットを北米で行われる「NAHBS」ポートランドに合わせた。当時は十分な売り上げがなかったので練習ができないどころかアパートの家賃もままならず工場の2階にある物置の片隅にテントを張って寝起きした。

この間、日本に来たときに私に打ち明けてくれたそのころのZULLO氏はコロブスのn.2ジェゴベーゼ氏やカレラのブラッキ氏にその日本人は要注意だと忠告されていたらしい。彼らにZULLO氏は「まぁそう言うな、彼にもチャンスを与えなくては」と言ってかばってくれたらしい。確かに、ヘンな日本人が転がり込んできたとしか見えなかっただろうし、業界のウラ話をすっぱ抜かれたら大変だという危機感からかも知れない。オランダ人の奥さんをもつZULLO氏は外国人だから[危険]という概念は他のイタリア人に比べて持っていないのでとてもありがたかった。

工房ではあの手この手でカーボンやアルミを使用することをやめるよう説得し、原点へ回帰するスチールフレームの制作を進めていった。ちょうどコロンブスがステンレス鋼管XCrを開発したところで私たちはその最初のテストロットでフレームを作り、ポートランドで行われるNAHBSに持っていったのである。その前後にはブランディングに欠かせないヘッドマークやロゴの選定、モデルの統一などを私が担ったと同時にグラフィックやペイントの一切を担当した。それから数年、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、オーストラリアなどへ順次輸出されるようになり銀行から返済催促の電話は鳴らなくなり工房は息を吹き返した。ZULLO工房が安定してから私は業界の頂点と思われたパッソーニ社へ赴く。ZULLO氏はとても残念がった、しかし在留許可が出ない以上、ZULLO工房にいるとそれこそそれまでの努力が水の泡になりかねない。ビザ発給を条件に移籍を決意した。

当時自社生産を休止していた同社では主にブランディングと新車種のデザインが主な仕事だった。やっとの事で就労ビザも手にしたがあのZULLO氏との2人3脚が忘れられない。私はパッソーニ社での正式採用を辞退し帰国、本当に意味で私たちが目指したハンドメードバイクの普及にあたることに。そんななか、ZULLO氏は私のいる日本にやってきてくれた。あのとき、彼の眼には裏切りに見えたかも知れない私の元へ。帰国してからイタリアでの日々が寝て夢をみたかのような錯覚に襲われたものだが、この数日は彼が私の家に居た。昔を懐かしみ、あの苦しかった日々を肴に食卓を囲んだ。あれは夢ではなかったんだとやっと思えたのだ。

今年は、帰るところをココロに持ち オッサンのいるヴェローナに行こうと思う。
たくさん頂いたオーダーも手伝いに行かなオッサンたまらんやろし。。。
支えて下さったみなさま、来ていただいたみなさまに工房を代表してお礼申し上げます。
      お お き に。

ZULLO TIZIANO & MASO

all my friends in Japan I want to say: Thank you so much for the beautiful days I had with all of you. I felt so welcome everywhere and met so nice persons who travelled many Km just to see me. It was a big honor to meet you all. It was a great trip and I saw many interesting places. I surely will come back to visit more places in Japan. A big thankfulness to my dear friend Maso who organized the whole trip so perfectly, I enjoyed so much to meet him again and his lovely wife. Thank you all and hope someday to meet you again !! Ciao da Tiziano Zullo.








1 件のコメント:

  1. いい話ですね。いつか中興の祖として安田さんの名前が社史に書かれるかもしれませんね。

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