むかし、ミラノに住んでいるときに骨董市で買い求めた古着のツイードジャケット。たった5ユーロだったがまるであつらえたようにぴったりだった。家に帰って仕立て屋のシェアメイトに見せると目を白黒させてうらやましがった。今でも良く着るジャケットの1つだがそれを5ユーロだと隠すことなく白状することにしている。人に威張るならアルマーニかも知れないがこの無名のツイードのほうが好きだ。
カッコいいとはどういうことなのだろうか?
身の丈に合ったモノをまとい、人の価値観に左右されない自分の物差しをもって物事を判断する。その価値観に他人の同意を必要とせずまた他の物差しを批判することもしない。・・ということのような気がする。だからオレは「イタリア製」だからといって国旗を付けなくてはいけないと言うのにはすこし抵抗がある。実際、フレームに付いているイタリアの国旗はものすごく小さく描くし、でっかいトリコロールを付けてくるブランドはそのステッカーを剥がしてしまうことも多い。日本製のカメラや自動車、自転車でもいいが日本の「日の丸」が付いているとちょっと「ダサイ」と感じるのはおれだけなのだろうか? 万が一にもフェラーリを買うことがあっても日本のナンバープレートの下にイタリアのナンバープレートを挟まない。それこそがモノがどこから来たということが自身の思う「格好良い」価値観を支配しているように思えてならない。
イタリア製だからカッコいい という漠然としたイメージが製品の本質をぼやかしているように思える。仮にZULLO氏が日本に引っ越したとしたらどうだろう?もちろんイタリア製ではない。過去には関西人のオレがイタリアで「メイドインITALY」と書いていたがそれは許されるのだろうか?
お客さんにカッコいいモノって?
これが難しい・・オレの持っている価値観をぐっと抑えなくてはならない。オレの趣向や好き嫌いを仕事に際してはオフにしなくてはならない。例えばオレンジ色の車体に黄緑色でロゴを入れたいというリクエストの場合、オレのバイクには絶対しないパターン。生理的にダメ。でも何故このリクエストが受け付けないのかをすこし掘り下げると、その2色が「補色」という真反対の色の関係になっている。色度のコントラストが最も強く、色温度も極端な差が出てしまい、製品を分割するように見える。これは「美術」という学問の上で論理的にNGなのである。
仕事に際してはオフにする自身の物差しだが、それによって冷静に対象である「ヒト」を見ることができる。自転車を設計する上では「お客さん」である。その「ヒト」と話をするところから始め、ありとあらゆるその「ヒト」についての情報を集める。お客さんの身体寸法をとるために遠くは九州、東北に足を運ぶのは採寸だけが目的ではない。使うヒトの持っている価値観を知ることがその人に合うカッコいいモノを創造する上でどうしても必要なのだ。
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