最初に移り住んだアパート、コルベットというミラノ地下鉄の駅ちかであった。あたりに駐車される車をみればその地域の治安がうかがい知れる。駐車される車のハンドルにはしっかり棒状のロックが付いているものや窓ガラスの割られたものが多いのだった。もともと戦後に建てられた分譲住宅で決してカッコいい事はないがビンボー学生にはそこそこに広くて家賃も物価の高い中心街よりかなりリーズナブルだった。まず、外国人だとなかなか借りる事が出来ないのが本当で、選ぶほど貸してもらえる物件が無かったのだ。そこは大家さんであるローザさんのおかあさんが住んだアパートで古い家具がそのままだった。住み出すといつの間にか日本人が集まり、私はみんなで住めば家賃の負担も少なくなるので当初3名でそのアパートを借りたのだった。その後、家探しで困っている学生などが避難してきたりで時折6~7名になることがあったが山小屋のように皆一時の宿にして出て行ったものだ。
そんなアパートにドイツから珍客がやってきた、妹だった。彼女はドイツの南ミュンヘンという町に住んでいた。そこから列車でイタリアにやってきたのだった。しばらくミラノに滞在した後、「次はおれが自転車のっていくわ」と別れ際に言ってしまった。そして夏が過ぎ、どの工房へ行ってもなかなか働かしてもらえるところが見つからない。だんだんと資金もなくなりかけて焦っていた頃、ふとドイツに行ってみたくなった。お金がないのでもちろん木製自転車を漕いで行くのである。交通量の多いミラノからブレーシアまでは国鉄の普通列車に自転車を乗せた。ブレーシアという駅で降りる予定だ。途中、国鉄の車掌があまりにおかしな自転車を積み込むものだから私の席のとなりに陣取り動かない。根掘り葉掘り色々質問されて車窓なんてまるで見ていない、その頃はまだイタリア語もままならずものすごいエネルギーを費やさなくては返事もできないのである。
なぜか駅によくある体重計 |
ガルダ湖畔トルボレの街 ここから果てしなく登りが続く |
当時、グーグルマップなんてモノはなく当然クルマ用のツーリングマップの必要なページを切り取って持っていったのだった。ペスキエラの要塞を背に湖を左手にみながら北上する、ミラノの都会にいると見えない大きな風景が広がっていた。都会の喧噪を離れただひたすら北を目指す、何がそこにあるかはわからない、本当のことを言うと妹に会うなんてのはどうでもいいのだった。ただ知らない土地に行ってみたかったのである。途中アルプスを越える事になるが木製自転車で山を越え、異国に行くというバカなこともしてみたかったのである。ペスキエラを出てしばらくするとトルボレという町からチロル川(イタリア名:アディジェ川)に出るという看板があるがその道はひたすら登りである。峠を越すとちょうど夕刻、テントを張れそうな場所を見つけないといけないと焦るのだがそこにパニーノを売る屋台があるではないか。トラックを改造した屋台の前で片手にレモンソーダをもち生ハムに夢中になりながらパニーノにかぶりついていると自転車を興味ありげに近づく男がいた。
<つづく>
体重計:なぜかよく街中に見かけた「体重計」、あるイタリア人がなぜだか説明した
「ひとに招かれて食いに行く前に計って、帰ってきて計る 何キロ食べたかわかるだろ」
本当は70年代健康志向のブームがあって体重を計り数値化するということが「健康」だという風潮があったらしい。
レモンソーダ:コーラ、ファンタの類は飲まないが、この「レモソ」だけは別。 コレがあるとBARでも必ず頼んだ。不二家のレモンソーダ(クロにシロの水玉)に近くやや炭酸がマイルドなのだ 姉妹品にオレンジテイストもあるがそっちはオススメできない。
ペスキエラ : この駅がこの数年後、自分の最寄り駅となる。イタリアでもっとも大きな湖を源とするミンチョ川の始点であり第一次大戦の際にオーストリアによって築かれた湖上の要塞都市。http://www.comune.peschieradelgarda.vr.it/
(役場のHPでは”イタリアの宝石”とうたわれているが、イタリア人が作った城跡ではない)
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こういう旅をされていたのですね。青春の思い出ですね。本当にリタイアした後に、こういう場所をzulloで回ってみたいものですが、言葉がダメですね。
返信削除kincyan@大久保
いや、ほら、書いておかないとなんだか夢をみたみたいになんだか本当にあったことのなのかどうか。。
削除帰国するとまるで10年が無かったかのような錯覚に陥りますね。ときどき思い出しては書いていくことにします。未来日記とは逆で過去の日記、リアルタイムで書き出したブログに追いつくまで10年のトピックを綴っていきます。
お楽しみに。